藤田宙靖(2026)『法律学者は何を論じるべきか』有斐閣
図書館でたまたま見つけました。
研究者と実務者(現場の支援者)の違い、目指すべきものに関心があります。
whyとhowの説明、「そのようなことをやっても自分が本来望む実践的結果には結びつかない可能性があるからと言って、『学者』はここを避けてはならない」は腑に落ちるところがあります。
では、なぜ学者はwhyを追い求めるのか。そこに何の意味があるのか・ないのか。
人それぞれだとは思いますが、実務者としてのアイデンティティがある私はいつもそこに戻ります。なんとなく考えていることもありますが、まだ上手く言葉にまとめられていません。
憲法学者であり、また最高裁判事をも務められた故伊藤正己氏は、三塚らの裁判官時代を振り返り、最高裁判事の思考方法の中に、「裁判官的思考」と「学者的思考」の二つの異なる傾向があることを指摘された(8)。私自らは、これを「具体的な紛争の解決を目指す限りでの法律解釈」を行う裁判官…と、「より一般的な(或いは根本的な)理論的裏付け」を求める学者との違いと理解している。 p.17
「学者」がやらなければならないのは、このようなスローガンを声高に叫ぶことではなく(叫んでも良いが、それと同時に)むしろ、このような信念に基づく一定の法解釈論的結論につき、「(政治的な良し悪しではなく)法理論上何故そうなるのか?」「本当にそれで法理論上の理屈が通っているのか?」を(仮にそれが実践的には余計な(邪魔な)作業となるかも知れなくとも)とことんまで問い詰めることである。これが「法実務」と異なる「法律学」なのである。 p.18
法律学者には、「法理論上何故そうなるのか(why)」を徹底的に問う責任が課されていると言わなければならない(これに対して、「どう解決するか(how)」が実務の出発点である)。
ところで、実定法上のある解釈をめぐって、「何故そうなのか?」「本当にそれで理論的に間違いはないのか?」を問うて行くときに、重要であるのは、「解くべき問題の内容が本当に精確に把握されているか?」、「用いられている概念の意味内容が理論的に明確であるか?」、「法理論的(規範論的)根拠が明確であるか(理論的な矛盾はないか)?」等々の問題に正面から立ち向かうことである。そのようなことをやっても自分が本来望む実践的結果には結びつかない可能性があるからと言って、「学者」はここを避けてはならない。 p.19
