■「健康」とは
在留資格のない仮放免者の方々がガンなどの重病になったときに、在留特別許可が認められ、在留資格(特定活動・告示外医療)が出る場合があります。在留資格を得られれば、国民健康保険に加入できる可能性があります。
よかったねという話なのですが、しかし、この在留資格が出るのは、支援者間の事例に基づいて考えると、ガンなどの「生きるか死ぬか」という時しか出ませんし、多くの方は亡くなっていきます。
でも、「入管は『生きるか死ぬか』という時しか在留資格を出さないが、そうじゃなくて『健康』が守られるために在留資格を出さなければならないのではないか」「入管の考える『健康』は『生きるか死ぬか』なのかもしれないが、私たちはそうではないということを言わなければならない」と北関東医療相談会・事務局長の長澤さんとお話していました。
私は「健康」とは「その人が自己実現を図れるような状態」だと考えていますし、WHOはWHO憲章の中で「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」と示しています。
■支援と研究
前置きが長くなりましたが、こうした状況下で、「健康」とは何かなと思い、表題の本を見つけて読み始めました。ところが、思いがけず、この本の中で「研究する意味」について言及している箇所を見つけました。第17章「社会疫学 社会のための科学・21世紀のための科学」です。
研究とは、ビジョンと長い期間(本書でいえば約23年)と大きなエネルギーを注ぎ込む営みである。それ故に、研究者の価値判断の影響を免れることはできない。とりわけ社会と関わる研究分野の研究者にとって、価値観は重要である。本書も、私の価値判断を色濃く映している。
近藤克則,2022『健康格差社会 ー何が心と健康を蝕むのか(第2版)』医学書院,230頁。
そのことを科学者のとるべき態度ではないと思われる方がいるかもしれない。しかし、本書の執筆で努めてきたように、自らの見解の根拠と限界を明示している範囲において、そのことが誤っているとは考えていない。先人たちも述べている。「疫学者の仕事は、その人の価値観に基づくもの」であり、公衆衛生とは「科学、技術、信念の組み合わせ」であると。
ユネスコ (UNESCO;国連教育科学文化機関) の「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」も、科学は「知識のための科学」にとどまるべきでないとしている。この宣言は、「21世紀のための科学:新たなコミットメント」をテーマに開催された世界科学会議(1999年)の成果として発表されたものである。そこでは、科学は「平和のための科学」「開発のための科学」であること、そして21世紀のための科学は、その成果を社会に還元する「社会のための科学」であるべきとしている。
近藤克則,2022『健康格差社会 ー何が心と健康を蝕むのか(第2版)』医学書院,230頁。
科学的に不十分で不確実な情報しかないとき、あるいは価値観によりとらえ方が異なるとき、重要になるのは社会的合意である。その合意形成過程で研究者が、今までに得られている知見やそれが示唆するものを、その不十分さや限界とともに示すことは、重要な社会への還元であり、「社会のための科学」の1つの形であろう。本書を執筆した理由はそこにある。社会は、共有する価値観など他の要素とともに、研究者の「科学的合理性」に基づく見解を考慮する。そして社会は、「社会的合理性」に基づいて「現時点で最善と思われる合意」を形成していくのである。
近藤克則,2022『健康格差社会 ー何が心と健康を蝕むのか(第2版)』医学書院,231頁。
近藤先生は、研究を行うにあたって「研究者の価値判断の影響を免れることはできない」。そして、「自らの見解の根拠と限界を明示している範囲において、そのことが誤っているとは考えていない」と示しています。
私は、マックス・ヴェーバーの「価値自由」(これが何なのかよくわかってはいないですが)のことがずっと頭にあり、悩み続けてきたので、そんな考えがあるのかと感じました。同時に、こうしたことは社会福祉関係の研究者の方もお話しされていたなと思い出しました。支援者でありながら研究もできるということが分かったような気がします。
そして、近藤先生は「今までに得られている知見やそれが示唆するものを、その不十分さや限界とともに示すことは、重要な社会への還元」とお話しされており、ここが研究でできるところなんだなと感じました。
自分の中で支援と研究をどのようにバランスを持たせていくか。少し見えてきたような気がするかもしれません。